ボーイ・ミーツ・ガールを科学的に検証する

最近、ボーイ・ミーツ・ガールの事をよく考えています。男の子と女の子が出会う。ボーイ・ミーツ・ガールのテーマは「」、それは人類普遍のテーマなわけで、昔から星の数ほどの作品が作られてきました。例えばシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」なんて完全にボーイ・ミーツ・ガールですね。ロミオとジュリエットは約400年前の作品です。ぱっと作品が思いつかなかったのですが、きっとそれ以前にもボーイ・ミーツ・ガールは存在しているに違いない。その長い歴史の中で大量の作品が生み出されました。


好ましいボーイ・ミーツ・ガールとは?

私は、小説、漫画、アニメが大好物な人間なもので、ボーイ・ミーツ・ガールに触れる機会が多いです。当然、それぞれ「ゲロ面白い」「面白い」「凡庸」「つまらん」「うんこ以下」だなといった感想を抱くわけなんですが、いったいどういった作品が面白いと感じて、どういった作品がつまらないと感じるのかについてが気になった。もちろん、ボーイ・ミーツ・ガールに求める要素は人それぞれでしょうから、今話しているのは私自身の判断基準の話です。どうにも私の好みには傾向があるように思えてならないのです。ボーイ・ミーツ・ガール物の中で好きなもの、嫌いなものをそれぞれ思い浮かべて考察してみました。ツンツンしたヒロインが最終的にデレるのが好きなんだろうか? 女の子が空から降ってくるとポイントが高い? ヒロインがバツイチで、アパートの管理人だと駄目? 色々考えた結果、


女の子が男の子を好きになっていく過程が丁寧に描かれているもの

が好きなんじゃないかという仮説にたどり着きました。相手を好きになるという部分が、ボーイ・ミーツ・ガールの根幹部分のはずで、ここが雑だとげんなりしてしまうのです。一目惚れしましたーとかは、 雑・オブ・雑だし、ひどい作品だといつ好きになったのか皆目検討つかないなんてケースもある。私はボーイとガールの心の距離が近くなったり、時には遠くなったりする移り変わりを感じたいのです。


仮説を検証せよ

今日は、その結論の確認のために「好きになっていく過程が丁寧に描かれているか?」という観点で、好きな作品、嫌いな作品を改めて視聴しなおして検証したい。


好きな作品代表「耳をすませば」
ジブリです。近藤喜文監督作品。ものすごく好きです、ジブリの中で一番好きだし、なんならアニメ映画というくくりでも一番好きな作品かもしれない。観ると鬱になって死にたくなる事で有名ですが、それはつまりボーイ・ミーツ・ガールとしての純度が高い証拠に他なりません。


嫌いな作品代表「君の名は。」
新海誠監督作品。好きな方も多いかと思うので、大変心苦しいのですが、私は大嫌いです。「君の名は。が好き!」とかいう発言をした人を、その後信用できなくなるレベルで嫌いです。Not for me.


この2作品を比較する上で、「フォールインラブ指数」を導入したい。フォールインラブ指数は、さっき私が考えたものなのですが、


フォールインラブ指数

指数状況
100フォールインラブ
81~99あ、あいつの事なんか別に好きじゃないから!
61~80この胸の高鳴りはなに?
41~60知らず知らずのうちに目で追ってしまう
21~40嫌い
0~20無関心、もしくは認知していない


こんな感じで定義しました。0が無関心で、100で恋に落ちる。作品を観ながら「このシーンのフォールインラブ指数60ぐらいだわ」「ちょっと下がったかな?」とかをメモりました。指数の変動を記録する事によって、相手を好きになってゆく過程が可視化出来るはずです。「耳をすませば」は月島 雫の、「君の名は。」は宮水 三葉のフォールインラブ指数を計測しました。この完膚なきまでの完全主観、雰囲気検証の結果は以下のようになりました。
※ ネタバレしまくりますので注意


■ 耳をすませば(月島 雫)

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「耳をすませば」は、「嫌な奴、嫌な奴、嫌な奴」から始まって、カントリー・ロードを演奏するシーンで大きく上昇します。その後どんどん先に行ってしまう聖司くんに対しての焦りなどからフォールインラブ指数は低下の一途をたどります。しかし、自身の小説を書き上げ区切りをつけたことで急回復、最後の丘のシーンで最高の値を付けます。その余韻を残したままエンディングへ。完璧な構成ですね。フォールインラブ指数は右に左にジェットコースターのように大きく変動し、かつその変化は丁寧に丁寧に描写されています。かーーっやっぱり、ボーイ・ミーツ・ガールはこうでなければ!




■ 君の名は。(宮水 三葉)

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「君の名は。」の場合、一度だけフォールインラブ指数が大きく上がるのですが、それ意外のシーンでは大きな変動が見られません。前後の状況を鑑みるに、どう考えてもそのシーンで瀧くんを好きになったとしか思えないのです。その問題のシーンとはこんな感じです。入れ替わっている事に気づいたタイミングで、主題歌の「前前前世」が流れ出す。その音楽に合わせて二人の悲喜こもごもの入れ替わり生活がダイジェストでパパパッーと表示される。長さにして2分40秒ほど。まるで映画ロッキーのトレーニングシーンのようでした。


私はこれがどうしても許せません。映画館でも「そこ、飛ばすのー? エイドリアーン!」と叫びそうになりましたもの。ロッキーのトレーニングシーンが許されるのは、トレーニングシーンがくっそ退屈だからです。「君の名は。」でのこのシーンは、相手を好きになるボーイ・ミーツ・ガールにおいて最重要と言っても良いシーンのはず。それをあろう事かロッキースタイルで「はい、ここで好きになりましたー!」とかやるなんて……。許されていいはずがない。
しかもこの作品は、お互いの体は入れ替わっているけれど、実際に会ったことはないという特殊な状況です。その状況にあって、どうやって相手を好きになったかを描写するのは、クリエイターの腕の見せどころだと思うんですよ。なんでそれがよりにもよってロッキーなんだろう、面倒だったのかな。


検証まとめ

このように私の場合、好きな作品の場合フォールインラブ指数がダイナミックに変動するのに対して、嫌いな作品はフォールインラブ指数の変動が単調である事がみてとれました。雑に考えた「フォールインラブ指数」ですが、意外といい感じなのではないでしょうか?ただ、私もフォールインラブ指数だけでその作品の良し悪しを全て判断出来るなんて、おこがましい事は考えていません。作品を良いと感じるか悪いと感じるかは、多分に感覚的なものだし、様々な要素が絡み合ったとても複雑なものです。その一方で、フォールインラブ指数は、良し悪しの一側面を捉えているように思うのです。ですから私がやったように「この美しいフォールインラブ指数の変動はどうだ。素晴らしい作品はフォールインラブ指数も美しい!」みたいな感じで、好きな作品、嫌いな作品に対して理由付けするのに最適かと思います。


質問: なんで男の子じゃないの?

ここまで議題に上げたのは全て女の子のフォールインラブ指数です。もしかしたら、なんで男の子じゃないんだろうと疑問に思われた方も居るかもしれません。最後にその疑問に答えておきたい。結論から申しますと、それはどうでもいいかなと思いまして。考えてもみてください、女の子という生き物は、打算的で、リアリストでもあります。ただなんとなく好きになるわけではなく、ロジックの積み重ねで好きになるものです。なので丁寧な描写が必須となる。一方で男の子の場合、「あの子が消しゴムを拾ってくれた!」とか「体育の時間に目があった!」とかで好きになっても謎の納得感ありません? せやなー、って思いません? そうなんですよ、男の子の場合は、好きになった理由なんてそんなんでいいのですよ。男の子はそういった生き物なんです。今回検証に使った両作品でも男の子の好きになった理由は大変雑な扱いを受けています。いらんだろうとは思うものの「君の名は。」の立花 瀧、「耳をすませば」の天沢 聖司のフォールインラブ指数も一応計測していたので結果を貼っておきます。


■ 君の名は。(立花 瀧)

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おっぱいですね! わかります。おっぱいは尊い。あの柔らかい一揃いの膨らみは、神が生み出したもうた奇跡の産物。瀧くんが、うっかり惚れてしまうのも無理からぬこと。




■ 耳をすませば(天沢 聖司)

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聖司くんに至っては、作品が始まる前からフォールインラブ指数:100のガチ惚れ状態ですよ。多分、図書館で見かけた雫が可愛かったとかが好きになった理由でしょう。図書館で隣に座ったことがあるとも言ってましたので、その時にいい匂いがしたりしたんじゃないかな。可愛くて、いい匂い、わかるわー。好きになった理由を完全に理解した。聖司くんはちょっとだけストーカーっぽいけいど、私はいいと思う。思春期の男の子なんて大なり小なりこんなもんですって。

リズと青い鳥を正しく評価せよ

現在上映中の「リズと青い鳥」を観てきました。京都アニメーション制作、山田尚子監督作品です。それで「リズと青い鳥」について思った事を今日は書きます。


スピンオフ作品

リズと青い鳥は、「響け! ユーフォニアム」のスピンオフ作品です。響け! ユーフォニアムと同じ世界、時間軸を共有しています。作中の時間としては、響け! ユーフォニアムの2期の後ぐらい。主人公が、従来のユーフォニアムの黄前久美子ではなく、3年生になったオーボエの鎧塚みぞれと、フルートの傘木希美になっています。スピンオフというか、響け! ユーフォニアムの続編と言ってもよいと思うのですが、この作品にはタイトルに「響け! ユーフォニアム」という名称を使っていません。これが個人的には納得いかない。確かに絵が響け! ユーフォニアムとはかなり違っていたり、主人公が違ったりはするのですが、うーん、その判断はどうなんだろう。単独の作品としても視聴に耐えるように配慮されていたように思いますが、響け! ユーフォニアムを知っている方がより多く楽しめるのは間違いありません。もしかしたら制作側の響け! ユーフォニアムを超える新しい作品をつくりたいという気概の現れだったりするのかもしれませんが……。


この件、地味に実害があります。響け! ユーフォニアムのファンがリズと青い鳥が関連作品だって事に気づかない事とか絶対ある。実際私は、響け! ユーフォニアムが大好きなんですが、リズと青い鳥が関連作品だって事に気づいたのは公開直前ぐらいでしたもの。全然別の作品なのかと思っていた。だから「リズと青い鳥 ~ 響け! ユーフォニアム ~」こんな感じでちっこく末尾に入れておいてくれればよかったのに。


表現方法

京都アニメーションの作品は大体そうなのですが、セリフに頼らない表現が素晴らしかったです。この作品は、京都アニメーションの作品群の中でもすば抜けていると感じました。主人公の鎧塚みぞれが、無口キャラというのもあり、セリフ以外の部分で雄弁に語らせているのです。足元にカメラを向けて歩き方でどんなキャラクターなのか表現したり、みぞれが髪を掴む仕草をみせる、ちょっとした視線の動き、凝ったカメラーワークなどなど。もう私なんか終始「はー、山田尚子さんやべー、はー」とか脳内でシャウトしながらみておりました。


オーボエの音色

鎧塚みぞれがオーボエ担当なので、もちろんオーボエを演奏するシーンがあります。そのオーボエがすごくて。あんなに豊かな音色が出せる楽器なんだと感心しました。こういった音楽で観客を圧倒するってすごく難しいと思うんですよね。だって私、音楽なんてまったくの素人ですよ。音の良し悪しなんてわかりません。そんな私がガンガンに魂を揺さぶられたのです。なんか、テクニックでもあるんですかね? 「こんな風に音を加工すると、素人は簡単に感動しちゃうんだぜ。ちょろいわー」的な何か。もういいです、私はちょろいと思われていてもいい。だってちょろかろうがなんだろうが、私感動しましたもの。ぜひ皆さんにも聴いて欲しい、それも映画館で。映画館の音響設備は素晴らしいですからね。


描写の丁寧さ

この作品ですが、劇的な変化は描いていません。例えるならば、最初は手をつないでいたのに、3歩はなれ、それがまた近づいて背中合わせに。触れてはいないが、空気を通して相手の体温が感じられる。なんかそんなです。そんななんです。リズと青い鳥は、3歩ほど離れてしまったお互いの心の距離、それを90分丸々使って縮めてゆく物語です。その微妙な心の動きを丁寧に丁寧に描いています。その意味ではカタルシスは少ないのですが、すっと抜けてゆく風のような爽快感がある。


興行成績

リズと青い鳥の興行成績ですが、初週は11位だったとか。
※ 参考【週末アニメ映画ランキング】「名探偵コナン」が2週連続首位、「リズと青い鳥」は11位スタート。
今の所、興行成績はイマイチになりそうな雰囲気がある。


ちょっと話が変わりますが、「効率的市場仮説」という言葉をご存知でしょうか? 株式用語で、その会社の価値は速やかに株価に反映されていて、市場は完璧に効率的であるとする仮説です。この言葉の後は決まって「だから株価は常に適正価格なので、タイミングなど気にせずに株を買って長期保有しましょう」というように論理展開がされます。長期投資家のスローガンのような言葉です。私この「効率的市場仮説」って言葉大好きなのです。だって、その会社の価値が正しく株価で評価されているとか、公平で素晴らしいじゃないですか。この考え方、なにも株式市場だけでなくてもいいと思うのです。同様に小説、マンガ、アニメ、映画といったコンテンツに対する評価も効率的であるべきだ。私は「効率的コンテンツ仮説」を提唱します。


「効率的コンテンツ仮説」によればリズと青い鳥は、興行成績がすごいことにならないとおかしい。だって素晴らしい作品なんですから。映画館はパンパンにならないとダメだし、Blu-ray はヒュンヒュン売れないとダメなのです。「興行成績は振るわなかったが、知る人ぞ知る名作」みたいな褒め言葉? がありますが、そんなんはごまかし以外のなにものでもない。言い換えれば「名作なのにみんなが映画館に来てくれなかった」と同義なわけですから。このままでは、リズと青い鳥が埋もれてしまう。コンテンツ業界の効率性がたりない。「効率的市場仮説」の実現には、投資家の株の売買が必要なように「効率的コンテンツ仮説」の実現にはコンテンツの消費者である我々一人ひとりの不断の努力が鍵を握ります。ハイッ! というわけで、コンテンツ業界を効率的にするために、みなさん必要な行動を開始してください。全員、映画館にリズと青い鳥を観に行くように。2回は観てください。私も来週にでも2回目を観に行こうと考えています。初回は、みぞれに注目して観ていたので、次は希美の心の動きに注目したい。


f:id:notwen:20180509014639j:plain (『リズと青い鳥』公式サイトより)

ゆるキャン△? 本当のキャンプはもっと殺伐としているぞ

2017年冬アニメは、粒ぞろいでしたね。ヴァイオレット・エヴァーガーデン、宇宙よりも遠い場所、そしてなんといっても、日常系キャンプアニメの決定版、ゆるキャン△でしょう。とても良い出来て、私もついついキャンプに行きたくなってしまいました。


でもちょっと思ったのですが、これってちょっと危険じゃないですかね? 私はこう見えて平均よりは多いキャンプ経験を持っています。その私からみると、ゆるキャンはキャンプの最も美しい上澄みの部分だけを抽出したようにみえる。私の知っているキャンプとは全然違う。そこの所を勘違いした方が、キャンプに行くと幻滅してしまうのではなかろうか。ゆるキャンでは、キャンプそのものが何かキラキラした素敵な体験であるかのように描かれていました。私は、キャンプの本質はキラキラした部分では無いと考えています。私のキャンプでの実話を紹介しつつ、キャンプとはなんであるかを、考えてみたい。


雨キャンプ

ゆるキャンで特に現実と乖離していると感じたのは、雨のキャンプシーンが皆無な点です。雨キャンプ無しでキャンプは語れません。ゆるキャンのアニメはもちろん、原作も読みましたが雨キャンプは無し。アニメのエンディングで雨の日のシーンが出てくるので、雨キャンプやるのかと期待していたのですが、結局本編では出てきませんでした。


雨はきっついですよ。本当にきっつい。行動が制限されるし、濡れるし、薪はしけってしまうしとにかくきっつい。私はこんな経験があります。なんか滝みたいな雨が降っている日にキャンプをしていました。地面がぐちゃぐちゃのべろべろで歩くとくるぶしぐらいまで泥に埋まってしまうし、雨が凄すぎて水場まで行けず雨水で鍋を洗ったりしてました。なんとかかんとか寝袋に潜り込んで寝てたら、なんだか冷たい感触が……。気づいたらテントの中まで浸水して水浸しでした。寝袋はビチョビチョだし、水位は1cmぐらいあるしで、寝れる状況ではない。仕方がないのでザックの上に座りながら朝まで耐えました。朝になったら雨が止んでくれたので良かったものの、あの日は死ぬかと思った。今思うとどこかに避難した方がよかったかもしれませんね。


虫の襲来

虫は要注意です。ゆるキャンの劇中では冬なので虫は登場しませんが、普通のキャンプでは虫は絶対に登場してくる。しかも時々ビッグウェーブが来ることすらある。私すごいウェーブを経験した事があるのです。未だになんであんな惨状になったのか意味不明です。小雨が降っている中で、私達はタープ(日よけ、雨よけの布)を張っていたので雨宿りに来たのかもしれません。虫が来たのです。ぶわーって虫が。羽虫的なちっこい奴が2億匹ぐらいきました。本当に2億匹ぐらい来た。一瞬ですべてが羽虫に占拠されました。テーブル、椅子、クーラーボックス、鍋、etc あらゆる物に虫が取り付いて1cmぐらいの黒い虫の層が出来ました。どさくさに紛れて羽虫以外にもモスラみたいな蛾まで混じっていて凄まじい光景。料理をしようにも鍋は虫さんの住居になっているので料理出来ない。椅子は虫さんが使っているので座れない。その日の夕飯は、たまたま手に持っていたチョコチップのスティックパンを立ったまま食べて飢えを凌ぎました。虫怖い。


トイレが無い

トイレの問題もありますね。普通キャンプ場には、トイレが付いているでしょうから問題ありません。しかしキャンプとは整備されたキャンプ場で行うとは限らないのです。私もただの原っぱでキャンプをした事があります。無論トイレは無し。必然的に、野◯ソであります。野グ◯というのは一種の背徳的な行為でありますので、私の仲間内では「野◯ソ行ってくる」などと宣言する事はマナー違反とされていました。野グ◯に行く人は、無言でスコップとトイレットペーパーを手に取り、堂々と藪に入って行く事こそ正しい作法でした。周りは「お、コイツ野◯ソに行くのか」と暖かく無言で送り出します。その際にどの方角の藪に入って行ったのかに注意しておく必要があります。自分が野グ◯に行く際に、同じスポットで野◯ソをしてしまうという悲劇を避けるためにも、先人とは違う角度で藪に入る必要があるためです。これは一種の生活の知恵と言って良いでしょう。


キャンプは野外でやるもの

結構ご存知ない方も多いかと思うのですが、キャンプって野外なんですよ。クーラーとか無いのです。高知の四万十川をボートで川下りしながらキャンプした時、くっそ暑くて。いや夏なんだからそりゃ暑いのは当然なんですが、あの時あの場所は常軌を逸していた。10日ぐらいキャンプ泊したのですが、10日間全部晴れ。平均気温が37度ぐらいあった気がする。あっついから服を来たまま、川にバシャーンと入るのですが、川から上がるとあまりの日差しと暑さで5分ぐらいで服がカラッカラに乾いてしまうのです。どうなってんだ高知は、修羅の国過ぎる。でも野外なので逃げ場はない。そんな環境に10日も居たのでキャンプが終わった後は2週間ぐらいは、黒人に人種変更していました。


キャンプ飯

ゆるキャンでは美味しいキャンプ飯がたくさん出てきますが、全部が全部あんなんじゃないですよ。ゆるキャンの1話に夕飯にカレー味のカップラーメンを食べるシーンがありますが、アレはリアリティ良しです。南アルプスの北岳(日本で二番目に高い山)にテント泊で登った時の話です。テントから食べ物まで全部リュックに入れて持っていくので、限界まで軽くしないといけません。ですから余計なものは持っていくことが出来ず、主食はチキンラーメンと魚肉ソーセージでした。世界一インスタ映えのしない夕食です。でも確かなのは、あの時のチキンラーメンは人生で一番うまいチキンラーメンだったということ。20kgオーバーの荷物を背負って一日中登山した後の食事なんでそらそうです。なんでもうまい。


キャンプとは

とまあキャンプとは、概ねこんな感じなのです。もちろん、100人いたら100通りのキャンプがあるでしょうが、本質は変わらないと信じます。私にも焚き火を囲んで仲間と語り合ったとか、夜空が死ぬほど綺麗だったとかのキラキラ系思い出もあります。しかしそれらは私の中で完全に脇役なのです。私の中で大きなウエイトを占めているのは、つらかったキャンプの思い出です。


こんなにつらいならホテルに泊ればよかった、なんなら家から一歩も出なければよかった。なのになぜ人はキャンプに行くのか? それは、キラキラな体験をするためなんかではなく、水没して、虫に襲われて、野グ◯して、焦げて、チキンラーメンを食べに行くためです。そして家に帰って来て自宅の素晴らしさを再確認するのです。「この家水没しないんだ。すごい」「トイレに行くのにスコップ持たなくていいんだ」ありふれた日常がどれほど素晴らしいものであるかに気づくでしょう。さあ、キャンプに出かけましょう。注意点は、スコップとトイレットペーパーを忘れずに持って行く事、そして水没したらすぐに避難すること。死なない程度に楽しみましょう。Have a nive camp!!


f:id:notwen:20180430041630p:plain (TVアニメ「ゆるキャン 」公式サイトより)

全世界のフレンズに贈る行動指針

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(けものフレンズ公式サイトより)

アニメ、けものフレンズがテレビ東京系列で再放送をされていました。あれだけの超ヒット作品だったのに、実は私観たことがなかったのです。遅ればせながら全話視聴させて頂きました。さて感想を述べさせてもらう前にまず謝罪をさせて頂きたい。けものフレンズ制作陣の皆様、ならびに関係各位の皆様、観もせずに駄作だと決めつけていてすみませんでしたぁ! 絶対一部の人が無理やり盛り上げているだけだと思ってました! みんなで「すごーい!」て言うのが「たのしー!」だけだと勘違いしていたのですが、まさか作品そのものも「すごーい!たのしー!」とは思いもよらなかったのです。

けものフレンズを観ることで肯定してもらえる事がかくも心地の良いという事に気付かされました。前述の「すごーい!」も「たのしー!」もそうですが、登場キャラクター達が全員ポジティブな事しかしゃべらないのです。全員が褒めて伸ばすタイプ、全員が究極のイエスマン。現実世界は「憎悪」「嫉妬」「後悔」「劣等感」といったネガティブな感情とポジティブな感情がないまぜになって存在します。その意味ではネガティブ感情がほぼ存在しないジャパリパーク(アニメの舞台)は、現実とかけ離れた異常で気持ち悪い世界なはずなのです。だのになんだこの優しい世界は、どうなっているんだこのあたたかい世界は。私も許されるならフレンズになってジャパリパークで生きていきたい。

けものフレンズ界隈の雰囲気

さて、先ほど観たことがなかったと書きましたが実は正確ではありません。厳密には「放送当初に1話を視聴して5分でやめた」でした。CGがありえないぐらいしょぼかったので、てっきり子供向けの租税乱造アニメの一種かと勘違いしてしまいました。名作と気づけなかった事に関しては私に非があります。ただ、ここまで私の視聴が遅れた原因は、当時のけものフレンズ界隈の雰囲気にも問題がありました。例えばステキな絵を投稿した人へのこんなメンション。

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当時こんな感じのツイートだらけでどうしようもなかった。ウジャ、ウジャ、ウジャ。5分視聴していた経験から、なんとなくどんな作品か知っていた私ですら「アホっぽいからこの仲間には入りたくない」と思ったものです。いわんや、けものフレンズをまったくご存知ない人がこれをみた場合「ちょっと近付かないでもらえますか?」と言われてしまうことは間違いなかったでしょう。

けものフレンズを全話視聴した現在の私なら、このツイートに秘められた2つの願いを理解する事が出来ます。大好きなけものフレンズをみんなにもっと知って欲しいという願い、そして誰もがお互いを認め合える優しい世界への賛美です。そんな崇高な願いの込められたツイートが、アホっぽいと思われていたなんて悲劇以外の何ものでもない。みんなに観て欲しいと思っているのにむしろ間口を狭め、絵を褒めているのにバカにしていると受け取られてしまったに違いありません。ではあの頃のフレンズ達はどういったツイートをするべきだったのか? 今日はそれを考えてみます。

ツイートを改良する

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けものフレンズをまったく知らない人に向けて出典を明示してみました。これによって「頭がおかしいわけじゃなくて、そのアニメでこういった言い回しがあるのかな?」と思ってもらえます。ただこれではまだ足りない。だって私は出典がけものフレンズだって知っていたのにアホっぽいと思って敬遠してましたから。

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伝わらないのならば、言葉を尽くして説明するほかないでしょう。「すごーい!」の一語に込めた思いを括弧の中に全て書き出しました。これならば本当にその絵を褒めている事がちゃんと伝わります。優しい世界を実現するための第一歩はリスペクトを相手に伝えること。この改良で「優しい世界への賛美」は完全に満たしたと言ってよいでしょう。しかし、なんかごちゃごちゃしていて美しくないですね。もっとシンプルにしたい。ここまでくると「すごーい!」の部分が不要なのではと思えてきました。でもそれを取ってしまうと「みんなにけものフレンズを観て欲しい」という願いがかなえられなくなってしまいます。どうしたものか。

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というわけで「すごーい!」を捨てて「絵を褒めるツイート」と「けものフレンズの宣伝ツイート」の2つに分離してみました。2つの願いを1つのツイートに込めるのはどだい無理があったのです。1つのツイートに1つの主張、大変スッキリいたしました。「すごーい!」を使う必要なんてどこにもなかったのです。全世界のフレンズの皆様はこのことを肝に銘じて行動の指針として欲しい。まずは身近な人を褒めてあげてください。そしてけものフレンズの宣伝ツイートをバシバシ投稿する。間違っても「すごーい!」「たのしー!」なんて使ってはいけません。そうすることで貴方の大好きな優しい世界を広く豊かにすることに繋がるのです。ではさっそく私から

「みんな愛してるよ!」
「けものフレンズ面白いから観てね!」

ふらいんぐうぃっちの問題点を指摘したい

魔女ー。
自然豊かで資源豊富な場所を好む彼女達。彼女たちには、
「15歳になったら一人立ちをし、家を出る。」
そんなしきたりがあるのだとか…。
そして、これは、一人前の魔女を目指すため、青森に引っ越してきた少女のお話。
ふらいんぐうぃっち公式サイトより)

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(ふらいんぐうぃっち公式サイトより)

ふらいんぐうぃっちは、青森県弘前市を舞台とした魔女の「日常」を描いた作品です。マガジンで連載しているマンガが原作です。私はマンガの方は未読なので今日はアニメの方のお話です。2016年4月から6月にかけて放映されました。

魔女ものなのですが「魔法少女まどか☆マギカ」みたいに首パーンみたいな事もなく、「リトルウィッチアカデミア」みたいなハリポタ的なファンタジー要素もありません。田舎の日常にほんのスパイス程度に魔法要素があるのみです。バトルもラスボスも無し。下手をしたら魔法要素を取り去ってしまっても物語として成立しそうなレベルです。盛り上がるようなポイントを意識して排除しているようで、ものすごいフラットなストーリー展開が特徴です。スーッと物語りが展開され通り過ぎていく。

で、このふらいんぐうぃっちなんですが多くの問題点を抱えている作品であると指摘せねばなりません。困っちゃいますね。今日は、それを一つ一つ確認していきたいと思います。

名前が良くない

「ふらいんぐうぃっち」て名前完全にダメじゃないです? 私のHDDレコーダーは新しく始まるアニメを勝手に録画する機能があります。自動で録画したアニメの1話を観て継続視聴するかどうかを判断するのですが「ふらいんぐうぃっち」はうっかり視聴する前にタイトルで切りそうになりました。あぶなっ!

だって、英語の「Flying witch」をカタカナではなく、わざわざひらがなで書いているのがあざとい。90年代の香りがします。これは完全に機会損失ですよ。タイトルで切った人が大量にいるに違いない。この高クオリティ作品に触れる機会を奪われた人の事を思うと同情の念を禁じえません。

大体、Flyingとか言っているわりにはたいして空を飛ばないわけで、そんな事に言及しなくてもいいのです。魔女というエッセンスだって極論すれば特筆する必要なし。なので「青森より愛をこめて」とか「拝啓、青森県弘前市より」とかでよかったのではないでしょうか。

放映時間が短い

普通のアニメなので、放映時間はCMを除くと23分ぐらいはあるはずなのですが、5分しかないのです。ちゃんと23分間放映してよ! 何を言っているのかコイツはと思われるかもしれませんが本当なのです。観て頂ければわかります。本当に体感で5分ぐらいに感じるのです。毎週、毎週5分ぐらいしか経っていないはずなのに突然エンディングが流れ始めて驚愕していました。ニコニコ動画で放映している時のコメントでも同様の指摘があったため私だけの現象ではなさそうです。

原因としてすぐ思いつくのは、「楽しい時間はすぐに過ぎる」というものでしょうか。わかる、それわかるわ。ふらいんぐうぃっちを視聴している間って優しい時間が世界を満たしてる感じがしますから。でもそれだけが原因だろうか? ふらいんぐうぃっちの体感での驚異的な短さはそれだけで説明できるとはとうてい思えないのです。私は情報量の少なさに原因があるという仮説を提唱したい。

一般的なアニメとくらべて、ふらいんぐうぃっちはスペクタクルな出来事がほぼ発生しません。ですから一般的な作品がストーリーや状況の説明のために 100 必要だとすると、ふらいんぐうぃっちは 70 程度しか必要としないのです。残りの 30 は別の事に使える。30 の分だけふらいんぐうぃっちは情報量が少なく、なんというか薄いのです。

別のことに使っている例として第9話にうってつけのシーンがありました。犬養さんに占いをしてもらっているシーンで、千夏ちゃんが占いをするために女の子座りから立て膝の姿勢になるシーンがあります。このシーンをなんと、下半身をアップにして

「女の子座り」→「両足をお尻の下に入れる」→「膝を伸ばす」

という三段階を描写したのです。↓ 言葉で説明し難いので画像をみてください。

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(ふらいんぐうぃっち第9話より)

えーっ、そんなところに尺を使っていいの? すげえ。だって、こんな事しなくてもパッとカメラを切り替えて、もうその時は立て膝になっているようにすればストーリー進行上は問題がないじゃないですか。それを、わざわざ自然な体重移動を行う姿勢変更を描写したのです。こういったシーンを挿入する事による情報量の薄さが、体感での視聴時間の短さにつながっていると私は確信しています。

ただ私が言いたいことは、こういった無駄なシーンを省いて情報量を多くしろと言っているわけではないのです。というかこういった無駄なシーンこそが、ふらいんぐうぃっちの優しくて幸せな空気感の根幹だと思うからです。それをすてるなんてとんでもない!

そうではなくて放映時間の方を調整すればいいのです。実際の放映時間は23分、体感は5分です。実際の時間と体感時間に4.6倍の開きがあります。ですから実際の放映時間の方を4.6倍にすればいいのです。

23 x 4.6 = 105.8

つまり、106分放映する事でちょうど体感では23分となります。これによって「5分しか放映していないじゃないか」という苦情も無くなることでしょう。制作陣の皆様、もし二期があるのでしたら106分放映をご検討ください、

嘘をついている

この作品は嘘ばっかなのです! なんぼなんでもひどい。私はガチ田舎で生活したことが無いので想像で語りますが、こんな理想的な田舎はこの地球上のどこにも存在しませんよ。現実はもっとギスギスしててぐちゃぐちゃしてドロドロしているのです。こんなには美しくは断じて無い。こんな田舎なら私も住んでみたい。

キャラクターも嘘ばっか。全キャラクター気持ちのいい奴らしか出てきません。現実の人間は、もっとギスギスしててぐちゃぐちゃしてドロドロしているのです。でもそれに、どこさ問題が? 何が不満だてか?(がんばって津軽弁風にしてみた)。私すっごい小物の悪役とか、胸くそ悪いキャラクターが出て来る作品って大嫌いなのです。現実にはそんなやからは大量にいるわけで、なんでそれを物語の中にも持ち込むのかな? 理解に苦しみます。

苦しい

数々の問題点のせいで奇跡的なまでの心地よい世界が出来ています。これは、情熱的な燃え上がるような恋ではなく、「ただ貴方にはずっと傍らにいて欲しい」そう願うような恋に似ている。しかし君は去りゆく(体感5分なので)。あまりにも優しい世界が心地よくて目覚めた時が苦しい。切なくて苦しい。こんな時間がこのままずっと続けばいいのに。私、ふらいんぐうぃっちの二期を希望します。1話あたり106分でお願いします。

マンガも総合芸術

最近マンガを読んだのです。タイトルは伏せますがどうもイマイチだった。何が悪いのだろう。具体的にどこが悪いとは指摘出来ないのだけどイマイチだった。不思議なんですよねー、元々イラストレーターとして有名になった方が作者なので絵はとても綺麗なのです。綺麗な絵はそこここにあった、だけどイマイチなのです。

「アニメは総合芸術である」そんな主張を聞いた事があります。ですよね! 間違いないと思います。 絵、脚本、演出、動き、音楽、などなど、様々な要素が全て高いレベルで存在しないと真に面白いアニメにはなりません。それぞれの要素は、アニメの場合完全に分業化されており、各分野のプロが魂を込めて作り上げ、それを監督がまとめて一つの作品とするわけです。その完成品を総合芸術と呼ぶのは言えて妙。

アニメだけじゃないよ

総合芸術という点に関して、アニメだけじゃないのではと私は思うのです。マンガもそうだし、もっと言えば小説だってそう。表現媒体が違うだけで、結局さっき上げたすべての要素が求められます。

マンガ家は良い絵を描けないといけません。マンガ家は良い脚本が書けないといけません。マンガ家は良い演出家でないといけません。動きも大切ですよね。コマの中での動きの表現はもちろん、マンガはコマとコマの連なりで動きを表現します。例えば、ジャンプするシーンを描くとして、次のコマで高く飛び上がった状態を描写するのか、間に深くしゃがみこむコマを挿入するのかなどで描かれる動きはまったく違った印象となります。

音楽も重要。「マンガで音楽ってなにそれ」と思われる方もいらっしゃると思いますが、マンガでも音を表現出来ますよ! のだめカンタービレや、四月は君の嘘など音楽をテーマとしたマンガはたくさんあります。もちろんマンガからは基本的に音は出てきませんから、聞いた人の感動を描写するなど間接的な表現にはなります。上手な方はちゃんと音を表現出来る。というか臭いも感触も行ける、上手な方ならいける。

エマが好きです

というわけでね、全部の要素が高いレベルを持っていてさらに、120点の要素もある、そんな作品が面白いのではないかと私は思います。前述のマンガは演出とかが弱かったかも。盛り上げどころのピントがずれている気もしないでもない。

その演出の面ですごいなと思ったマンガは、森薫さんの「エマ」です。メイドものなのですが、主人公のエマをメイドに取り立ててくれた主人であり恩師であるストウナー夫人が亡くなるシーンが凄まじかった。私とかは、悲しみを表現するために「まあ顔のアップで目じりに涙でも溜めておけばいいんじゃない?」とか短絡的に思ってしまうのですが、そんなしょぼい事を森薫さんはやらなかった。持ち主のいなくなったベッドルームがエマの肩越しに見えるというコマで空虚さを表現していました。これです↓

f:id:notwen:20170201032536j:plain (著者:森薫、エマ、2巻 P77より)

「悲しいっ」とか「胸にぽっかりと穴が……」とか余計なセリフは一切無しで、ただ背中を描写しただけで無粋な言葉で表現するより100万倍ぐらいの悲しさが表現出来ています。最初にこのページを読んだ時、表現の上手さに感動してスタンディングオベーションしてしまいました。悲しいシーンでちょっとアレな反応だった気はするのですが、それだけすごい演出だったという事です。

ちなみに森薫さんですが、エマの最初の頃は絵があまりお上手ではなくそこが唯一の弱点でした。しかし、エマが完結する頃には超絶技巧レベルの絵になられたたのですべてが120点レベルの完璧超人漫画家になられています。

あさひなぐも好きです

他では、こざき亜衣さんの「あさひなぐ」でしょうか。高校の薙刀部が舞台の作品です。こちらはとにかくセリフが素晴らしい。専属のコピーライターでも付いているんじゃないかってぐらい心に残るセリフが多いです。

f:id:notwen:20170201032520j:plain (著者:こざき亜衣、あさひなぐ、第11巻 P112より)

これとか最高じゃないですか? ねえ? 「弱ささえ、置いていく事ができるわ。」ふぁあああぁ。いいです、すごくいいと思います。もうこのシーンが好きすぎて、一時期毎日11巻を読んでいました。一日の始まりは、コートには弱さを置いていく事ができることの再確認から。

このあさひなぐですが狂おしくおすすめです。ここまでグダグダとマンガは総合芸術だなんだと書きましたが、そんなの完全に前座であって、このあさひなぐをレコメンドしたいがためにこのエントリーは存在するといってもいい。

主人公の旭は、薙刀がへったくそなのですが、涙と鼻血と汗でぐっちゃぐちゃのべろべろになりながら練習して練習して少しづつ強くなっていくという流れ。こっちにまで汗と防具が臭いが漂ってきます。これぞスポ根、これぞ王道。現在、既刊21巻ですがまったく中だるみを感じません。全人類が読むべき作品なので、皆さん読むように。

パンツァー・フォー

なんかそろそろ劇場公開が終わっちゃいそうなので今更ですが、ガールズ&パンツァーの劇場版を観てきたので感想を書かせてください。

いやー、あれですね、粗は目立つ作品ですよね。ガルパンは元々設定がアレでしたが、劇場版はさらにぶっ飛んでアレでした。砲弾当たったら死ぬんじゃないかととは常々思っておりましたが、今回はなんか大洗の街が無くなりそうな勢いで破壊していたり、砲撃で少々地形が変わったりしておりました。ただ、その辺のガルパン特有の設定に突っ込みを入れるのは無粋というものでしょう。誰がウルトラマンが登場と同時にスペシウム光線を打たない事に文句を言いますか? これはね様式美と言うのです。こういうものなのです。

他は、ちょっと色々詰め込み過ぎの感があるかな、ごちゃごちゃしてる。それと敵側の描写が少なくて、私とか最後まで敵の大隊長のキャラクターが掴めませんでした。ただそれは、鑑賞後の興奮から随分たってから落ち着いて考えてみたら出てきたもの。もうそんな粗とかどうでもいいや。とにかく気持ちいい! 戦車がグギャーッと走って、打たれてボンッと弾けて吹っ飛んで、スコーンッと砲弾が装甲をぶち抜くんです。特に音響が最高でした。砲弾がすぐ横を通り抜けてゆく飛翔音、砲弾が装甲に着弾して金属と金属のぶつかり合う音、砲弾の集中攻撃を受けている車内などは、その振動までこっちに伝わってきそうでした。この音響はなかなか家庭で再現するのはきついものがありますから映画館に行ってよかった。

二時間の上映時間のほとんどを戦車戦をしていたのではないかと思うのですが。まったく退屈しませんでした。キャタピラのきしみ、砲塔の回頭、戦車の疾走感、とにかく動きのキビキビとしていて一つ一つが気持ちいい。カメラアングルもよく工夫されていて気持ちいい。テンポもこれ以上ないぐらいで気持ちいい。少々の粗などぶっ飛んでしまう一級のアクション映画です。アクション映画と言えばハリウッドですが、それらに勝るとも劣らないアクション映画を日本が持つことが出来たのが誇らしい。

戦車道

GJ部 りぴーと! でぃすくは死者が出るかもしれない

GJ部

本日は「GJ部」についての注意喚起を行いたい。目的不明の部活で、特に何をするでもなく部室で過ごすというアニメがGJ部です(ライトノベル原作)。一風変わった部活、猫耳、小学生みたいな先輩、メイド、散りばめられたファクターは定番、悪く言えば手垢のついたものばかりです。にもかかわらずこの作品は、私の知る限り最高の依存性と最悪の禁断症状を併せ持つAAA+の危険なアニメーションに仕上がっています。第一話のAクールを見てしまったら最後、脳をやられ現実世界に引き戻す事は苛烈を極めます。治療方法として、パソコン、テレビなどGJ部を写しうるあらゆる機器から隔離し、激しい禁断症状と戦いながら時間が解決してくれるのを待つという方法が知られています。

しかしながらこの方法では治療期間が長期に渡るばかりか、社会生活に復帰した後に再発する確率が高いと言われています。そこで短期間で根本的に治療する方法として行われているのが、椅子に縛り付けて最終話である第12話を強制的に連続試聴させるという荒療治。第12話はGJ部最後の良心とも言える回で、先輩方の卒業式、そう別れが描かれるのです。第12話こそがGJ部の世界に別れを告げて視聴者を現実世界に引き戻す役割を担っているのは明らか。その役割の重さから最重要エピソードと言っても過言ではありません。にもかかわらず重症者にGJ部が全何話であるかを問うと「GJ部は全11話である」という答えが返ってきます。一人の例外もなくです。彼らに嘘をついているという自覚はありません。終わりが来るという恐怖と、心にぽっかり穴があいてしまったような喪失感に耐えられず、無意識的に12話の存在を拒否し無かった事としているのです。

「GJ部」の危険性の原因とは?

大変に不思議なアニメです。GJ部の危険性は衆目の一致をみていますが、なぜここまで危険性を持つに至ったのかについてはコンセンサスが得られていないのです。「主人公のキョロがかわいいからだ」「なにか怪しい電波が出ているのではないか」「森さん!森さん!回って森さん!」など諸説が入り乱れている状態です。

私見を述べさせて頂くと、GJ部は青春を描写することに成功したのではないかと私はみています。青春とは、若く未熟で、だからこそ繊細で、一生懸命なんだけど斜に構えていたりする、そんなぼわっとしたつかみようのない概念みたいなものです。舞台を高校にすれば描写出来るような簡単なものでは断じてないのです。私の青春には、猫耳、小学生みたいな先輩、メイドといった濃い人たちは存在しなかったわけで、要素の一つひとつに注目するとGJ部は到底青春とは相容れないように感じるのです。だのに、だのに、この胸の高鳴りは? むず痒くなるような感覚は? 私にはこれを"青春"としか表現出来ません。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

芭蕉は静寂を音でもって表現し、GJ部は青春を青春ではないもので表現しました。

GJ部 りぴーと! でぃすく

皆さんに警告したい。私には危険を知りながら座視する事なんて出来ない! GJ部 りぴーと! でぃすくなるものがこの度発売されました。GJ部全12話を一枚のディクスに収めたBlu-rayです。ディスク一枚に三話以上収録してはならないという暗黙の了解をぶち破った勇気には、大いにエールを送りたい。

しかしなんて事をしてくれたのだ、よりにもよってGJ部とは。これでは、ディスクを交換しないでぶっ続けで視聴出来るじゃないか。恐ろしい。しかもなんとこのディスクには、1~11話だけをリピートする機能が搭載されています。これはひどい、GJ部というアニメの特性を熟知した者の犯行です。これじゃあ一生抜け出せるはずがない。

手元にあるGJ部 りぴーと! でぃすくで本当にリピートするか確認したのですが、これが本当に11話で1話に戻るんですよ。12話の存在を隠すために11話には次回予告が無い。完璧な仕事です。完全に殺しに来てる。これほどデンジャーなBlu-rayが規制もされず大手を振って売られているなんて、日本の狂気ここに極まれり。おっと、今GJ部の最終話である11話がちょうど終わった所です。三巡目を観ないといけないのでこれで失礼しますね。アデュー。