書評「火星の人」

火星の人

ここ最近、誰かに本を紹介する際は絶対にこの「火星の人」を紹介しています。ここ数年私が読んだ小説の中で間違いなく一番だからです。いきなりネタバレで恐縮ですが、有人火星探査中に主人公のマーク・ワトニーが、ただ一人火星に取り残されて、生き残るために火星でジャガイモを栽培する話です。他にも色々するといえばするのですが、他の要素は置いといてジャガイモ栽培が一番の白眉。火星に取り残された人間という意味で、タイトルは「火星人」ではなくて「火星の人」というわけです。

火星に謎のモノリスが発見されたり、地球外知的生命体が出てきてワチャワチャしたり、実は現実だと思っていたものが仮想現実だったとかのスペクタクルな展開は皆無です。その代わりに、ワトニーはひたすらジャガイモを育てて、ジャガイモは1㎏あたり770キロカロリーだから、400日間で150キログラム作れるから76日間生きられると計算したりしています。ジャガイモのカロリー計算に限らずにワトニーが計算をするシーンが頻出します。物語を語る上での、ご都合主義的な描写は必要最低限、次々と発生する問題を気合でなんとかするのではなく、ロジックを積み重ねる知恵と知恵と知恵と少々の勇気で克服していく様は新鮮で快感。

ぼっちの人

主人公ワトニーは基本独りぼっちなので、話し相手はいません。毎日の活動記録を日誌として残しているので、読み手はその日々の日誌を読んでいるという事になっています。要は、おっさんの火星ジャガイモ栽培日記を読まされるわけです。それなのにこれほどに引き込まれ、読ませる文章に仕上がっているのは火星の人七不思議の一つに数えられていいでしょう。ああ、すごい、いいなこれ、そしてわけがわからない、面白い事は分かるけど、どうして面白いのかが分からない。

主人公ワトニーのあっけらかんとした、底抜けの明るさにもしかしたらヒントがあるのかもしれない。ワトニーは救助が来るのには時間がかかり過ぎて餓死するという未来が当選確実の状況で、冗談を飛ばしながら(ただし独り言)生存の確率を高めるためにもくもくとジャガイモを栽培します。正気を保っているだけでもすごいのに、なんでこいつこんなに楽しそうなんだ。 私ならジャガイモがあったとしても増やそうとはせず、世をはかなんでじゃがバターにして食べてしまう気がする。でもまあ「ダメだ。もう駄目だ死ぬ。絶対死ぬ。なんで私がこんな目に会わないといけないんだ……」と怨嗟の溢れ出てる文章よりも、楽しげな文章の方が見ているこっちとしては楽しいのでこれが正解なのかもしれない。そして、読んでいくうちにどんな問題が発生しても絶対に生きることを諦めないことこそ、宇宙飛行士としてのライトスタッフ(正しい資質)なのだという確信が生まれてきました。やっぱり宇宙飛行士は頭のネジの一本や二本が吹き飛んでいないと務まらないのだな。

宇宙オタも納得

科学考証の確かさも本作の魅力です。作者の方が重度の宇宙オタクらしく火星探査ミッションの細かい部分の描写のリアリティのあることあること。もし実際に火星探査を実現するかについて様々なアイデアが世界中から出されていますが、それら現在出ているアイデアがたくさん作中に出てきます。

例えば、火星の大気中の二酸化炭素から帰りの燃料を作るアイデアとかなんかは、「お、このプラン知ってる」って感じで楽しく読めました。 ただ一点、ワトニーが火星に置いて行かれる原因となった火星の嵐は演出上の嘘を含んでいるとの事。作中ではパラボラアンテナがぶっ飛んだり、着陸船が傾いたりと大変な事になるのですが、実際には火星の大気密度はとても低いためそんな事態は発生し得ないらしい。しかし嵐がないとワトニーが火星に取り残される事もなく、お話がまったく進まないので、そこは目をつむりましょう。

ジャガイモは世界を救う

ワトニーの命を繋ぐ作物として、ジャガイモを採用した目のつけどころが素晴らしい。ジャガイモを皆さん何の気なしに貪り食っていると思いますが、ジャガイモは超ハイスペック作物なのです。ジャガイモは非常に生産性の高い作物で、米は収穫まで120日、小麦は200日ほどかかるのに対して、ジャガイモは90日程度で収穫可能です。アダム・スミスは国富論においてジャガイモの事を「小麦の三倍の生産量がある」と評しています。その高い生産性から多くの人々を飢餓から救いました(逆に依存し過ぎてジャガイモの不作によるジャガイモ飢饉なんてのもありましたが……)。世界を変えた作物というランキングでは、小麦、米に次ぐレベルと言ってよいでしょう。

その意味でジャガイモはとても惜しいのですよね。歴史に登場するのが遅すぎた。ジャガイモがヨーロッパに伝えられたのは、15, 16世紀と言われています。紀元前の数千年前から栽培されていた小麦、米に比べて新参者もいいとろです。もっと早く栽培が始まっていれば、今頃カレーの米の部分はジャガイモだったし、うどんはじゃがいもから作っていたに違いありません。私はお寿司屋さんでフライドポテトを注文するぐらいのジャガイモ派の人間なのでこの現実には忸怩たるものがあります。しかしながら21世紀はジャガイモの世紀であると私は確信しています。世界人口は今世紀中には100億人にも達すると言われています。そんな人類のカロリーを支えるのは誰あろうジャガイモでしょう。ジャガイモこそがキング・オブ・穀物。みんなジャガイモを植えろ、世界人口100億人に備えるんだ。

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