本の書き出しを訪ねて

ほんのまくらフェア

私ちょっとまえにこんなツイートをしました。その時に思い出したのが紀伊国屋で何年か前にやっていた「ほんのまくら」フェアです。書き出しの面白い本を集め、本を書き出しの一文だけが書かれたカバーで覆ってしまいます。著者もタイトルもわからない状態で、カバーに書かれた書き出しだけで判断して本を選んでみてくださいという趣向でした。

もちろん手にとって奥付をみたり、カバーを外せば著者もタイトルも分かるのですが、それは無粋というものでしょう。私はその時に二冊ほど購入しましたが、たまたま普段読まないようなジャンルの本だったので、読んでいて新鮮でとても楽しかった。こういった本との偶然の出会いは、意外と機会がないものです。 「ほんのまくら」フェア、またやってくれるといいのですが。

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書き出し

さて、そんな話を記事のまくらとして、本の書き出しの話をしたいです。本の書き出しはとても重要です。本屋さんで冒頭の部分を流し読みして購入を判断することもあるでしょうから、書き出しで読者のハートをわしづかみにする事はセールスにも繋がります。また、秀逸な書き出しは、その作品のイメージを代弁して宣伝部長のような働きまでする事があります。例えば、夏目漱石の「吾輩は猫である」の書き出しは、まさにそれ。読んだ事がなくてもこの書き出しを知らない人はいないでしょう。

吾輩は猫である。名前はまだない。
(夏目漱石 1905年 「吾輩は猫である」より)

他にも、今ぱっと思いつく有名な書き出しをリストアップしてみます。

メロスは激怒した
(太宰治 1940年 [「走れメロス」]より)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった
(川端康成 1937年 「雪国」より)
今日ママンが死んだ
(アルベール・カミュ 1942年 「異邦人」より)
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
(鴨長明 1212年 「方丈記」より)

これリストアップしてて愕然としたのですが、全部古くなーい? 一番新しい異邦人ですら75年前、方丈記に至っては800年前なのですが。他の人はどうだろうと思って「書き出し 有名」とかで検索してみたら、他の人も古い作品ばかりだった。これってつまりアレですかね。アレなんでしょうか。

長い長い時間の流れによって、日本人の文章能力はどうしようもなく劣化してしまった。かつての美しく繊細な表現能力は失われて久しい。

こんなですかね? つまりこんな話ですか? おお、時の流れとはなんと残酷な事だろう。カムバーック、美しい日本語!

とか一瞬考えてしまったのですが多分違う。ごめん、ごめん、勘違いっぽい。だってリストアップした作品は、時の洗礼を受けて、なお残った本物だけですから。例えば、太宰治の同年代の作家でも、しょーもない文章を書いている人がワサワサ居たはずです。でも、しょーもない作品は、しょーもなかったが為に忘れ去られ、メロスは残った。そういうことです。文章が美しいのも当然というものでしょう。しかも古いという事は、宣伝期間も十分にあったという事です。長い時間かけて読まれ、語り継がれたからこそ、人々の記憶に焼き付いています。だから、素敵な書き出しを持つ作品を上げようとすると古い作品ばかりになってしまうのでしょう。

現代の書き出し名作を訪ねて

というわけで、最近の作品にだって素晴らしい書き出しを持っている作品がたくさんあるはずなのです。十分に周知がされてないというだけで、さっき挙げた書き出しに勝るとも劣らない書き出しが必ずあるはず。ですから本棚を引っ掻き回して探してきました。

女子高生の頃、なんとなく学校生活がかったるいという理由で体中に生えているあらゆる毛を剃ってみた事がある。
(本谷有希子 2006年 「生きてるだけで、愛。」より)

前述のほんのまくらフェアで買ったうちの一冊です。ほんのまくらフェアで選出されるだけあって、中々秀逸ではないでしょうか。この一文だけで主人公のキャラクターを恐ろしく的確に描写出来ています。私はこれを読んで「ちょっとエキセントリックでメンタルヘルスがアレなのかな?」という印象を受けましたが、本当にエキセントリックでメンタルヘルスがアレな主人公でした。続きが気になるキャッチーな書き出しでもあるので、かなり高得点の書き出しと言えるでしょう。

古のローマには、多いときで三十万にものぼる神々がすんでいたという。一神教を奉ずる国々から来た人ならば眉をひそめるかもしれないが、八百万の国から来た私には、苦になるどころかかえって楽しい。
(塩野七生 1992年 「ローマ人の物語I ローマは一日にして成らず」より)

古代ローマ全史を描いた作品です。歴史を扱う書籍って絶対に難しい。しかもよりにもよって古代ローマ。古代ローマって遠いんですよねー。物理的に日本とローマは約1万km離れていてメチャクチャ遠い。しかも2000年以上前の遠い昔の話です。色々な意味であまりに遠く、古代ローマを読み手に興味を持ってもらうのは至難の業。そこを古代ローマと我が国の神様の数を対比させる事で、遠い古代ローマを身近に感じてもらうという狙いですね。とても上手い。

企業のネットが星を覆い、電子や光が世界を駆け巡っても
国家や民族が消えてなくなる程
情報化されていない近未来
(士郎正宗 1991年 「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」より)

これはすでに有名かも。攻殻機動隊はアニメ化もされていますが、この一文は原作の漫画の冒頭に書かれています。サイバーパンクという概念を最も短い文章で表現したものじゃないでしょうか。これを2017年ならまだしも、ネットの黎明期(マンガの初出は1989年5月)に書かれたというのがすごい。先見の明がヤバイ。民主主義を表現した「人民の人民による人民のための政治」と一緒に歴史に残したい。

九歳で、夏だった。
(乙一 2000年 「夏と花火と私の死体」より)

いやなんと言うかシンプルでシンプル過ぎるような一文なのですがなんか好き。句読点を含めても9文字しかないのですがなんとパワーのある9文字だろう。イメージが湧いてきます、真上照りつける太陽、ジメジメ、汗、雑木林、セミの声。いい、これ。今日探した中では1番好き。ちなみに「夏と花火と私の死体」は乙一さんのデビュー作で、執筆時点で16歳だったとか。

名作はすべからく名書き出しなのか

私、素晴らしい書き出しを探すなんて簡単な作業だと思っていたのです。だって私の本棚には名作がゴロゴロあるのですから。そこから適当に手に取れば100個ぐらいすぐ集まるんじゃない? でも意外とこれはという書き出しは少なかったです。もの凄い名作でも意外と普通の大人しい書き出しが多かった。

むしろこれは、駄目でしょうって奴すらあった。例えば、銀河英雄伝説なんて最初の18ページをまるまる使って銀河開拓の歴史を延々描写しています。物語が始まる前にダラダラとそのバックグラウンドの設定を読まされるのです。絶対にやってはいけないはずの書き出しであるのは間違いありません。でも銀河英雄伝説が歴史に残るし残すべき名作なのも間違いない。

ですから「名作は、すべからく名書き出しである」とは言えない気がします。しょぼい書き出しの名作は無数に存在するから。でも、逆は真である気がする。つまり「名書き出しを持つ作品は、すべからく名作である」最初さえ面白ければ、後半なんておのずと付いてくるに違いない。